北条政子(Hōjō Masako)
北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) – 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。
周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。
なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明。
北条政子の名言
【原文】
皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。
故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ浅からんや。
而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。
【意味】
皆さん、心を一つにして聞きなさい。これが私からの最後の言葉です。
今は亡き頼朝公が朝敵を滅ぼし、関東に政権を築いてから、
あなたたちの官位は上がり、禄高もずいぶん増えました。
あなたたちはかつて、平家のもとでどう扱われていましたか?
犬のように召し使われていたではないですか?
しかし、今は京都へ行ったとしても無理に働かされることもなく、
よい暮らしができるようになりました。
すべてこれらは、亡き頼朝公の御恩。
その御恩は、海よりも深く山よりも高いのです。
今、逆臣の讒言によって、理に反した綸旨が下されました。
今こそ頼朝公へのご恩を返す時であります。
名を惜しむ者は、逆臣を討ち取り、三代にわたる将軍家の恩に報いなさい。
ただし、朝廷側につこうという者があれば、それは構いません。
早く行きなさい。
私のあの時の悩みは今の静御前の心と同じなのです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません。
-北条政子-
そこまであなたが安達景盛を討つというならば、まずわたしに矢を射りなさい。
-北条政子-
子供たちの中でただ一人残った大臣殿(源実朝)を失い、これでもう終わりだと思いました。なぜ尼一人(北条政子自分のこと)が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。川に身を投げようとさえ思ったのであります。
-北条政子-
北条政子関係者の名言
北条政子の夫である鎌倉幕府を開いた征夷大将軍の源頼朝の名言はこちらです。
夫の弟にあたる平氏打倒に貢献した源義経の名言はこちらです。
北条政子関係書籍