世阿弥
世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? – 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和申楽結崎座の申楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに申楽(猿楽とも。現在の能また歌舞伎の祖形ともいう)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。
幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。
(Wikipedia)
能や歌舞伎の礎を気づいた「世阿弥」の名言
【原文】:初心忘るべからず
【意味】:初めの志を忘れてはならない。
-世阿弥-
【原文】:稽古は強かれ、情識はなかれ
【意味】:稽古でも舞台でも、厳しい態度でつとめることを意識し、決して傲慢になってはいけないのである。
-世阿弥-
【原文】:秘すれば花なり秘せずは花なるべからず
【意味】:秘めるからこそ花になる、 秘めねば花の価値は失せてしまうのである。
-世阿弥-
【原文】:家、家にあらず。 継ぐを以て家とす
【意味】:家はただ続くから家なのではない。継ぐべきものがあるから家なのだ。人もその家に生まれただけで、その家の人とは言えない。その家が守るべきものを知る人だけが、その家の人と言えるのである。
-世阿弥-
【原文】:離見の見にて見るところはすなわち見所同心の見なり
【意味】:観客の視点で自分自身をみることで、初めて自分の姿を見ることができる。
-世阿弥-
【原文】:上手は下手の手本、下手は上手の手本なりと工夫すべし
【意味】:下手な者が上手な者を手本にして真似をするのは当然であるが、上手な者もまた下手な者の失敗や不手際などを参考にして上達するように工夫するべきである。
-世阿弥-
【原文】:命は終わりがあり、能には果てあるべからず
【意味】:命には終わりがあるが、能は芸術であって極めることに終わりがないので、終わりがあってはいけないのである。
-世阿弥-
【原文】:時分の花をまことの花と知る心が真実の花になお遠ざかる心なり
【意味】:若いときだけの役者の魅力を、生涯失うことのない魅力と思ってしまうことが、役者としての真の能力を獲得することから遠ざけて考えである。
-世阿弥-
【原文】:愚かなる心よと見る心より、ほかには何の玉をみましや
【意味】:自分が愚かであると自省する心以外に、貴重な宝とみることができるものなどあるのであろうか。(いや、ないのである。)
-世阿弥-
【原文】:住みたるなきをまず花と知るべし
【意味】:良いものは常に変わっていくものである。
-世阿弥-
世阿弥関係者の名言
- 世阿弥をサポートしたと言われている足利義満の名言
足利義満名言|金閣寺を建立した一休さんをサポートした室町幕府第3代征夷大将軍の言葉