大谷吉継名言集|石田三成の盟友であり関ケ原の戦いで敗れた輿の武将の言葉

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大谷吉継(Otani Yoshitsugu)

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。

業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。

(出典:Wikipedia)

大谷吉継の名言

眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候

 

無謀であり、三成に勝機なし

 

契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも

 

お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ

 

三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける

 

人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん(三年の間に必ずや祟ってやる)。

 

 

 

大谷吉継関係者の名言

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