持統天皇(Empress Jitō)
持統天皇(じとうてんのう、645年〈大化元年〉 – 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 – 697年8月22日〈持統天皇11年8月1日〉)。天武天皇の皇后(天智天皇の娘、天武天皇の姪にあたる)。皇室史上3人目の女性天皇。
諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)であり、これは娑羅羅馬飼造が養育したからであると考えられる。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の703年(大宝3年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の720年(養老4年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号「持統天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。
(出典:Wikipedia)
持統天皇の名言
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山(百人一首)
現代語訳:もう春は過ぎ去り、いつのまにか夏が来てしまったようですね。香具山には、あのようにたくさんなまっ白な着物が干されているのですから。
百済救援の際に、その方は唐の抑留捕虜とされたのである。その後、土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元実児の四人が、唐にて日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えていたのである。その時その方は富杼らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、その方はひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来たのである。自分は、その方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。
持統天皇関係者の名言
天武天皇名言集|天智天皇の弟である壬申の乱で勝利した大海人皇子から学ぶ言葉