上杉謙信(Uesugi Kenshin)
上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代に越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配した武将・大名。関東管領(1561年 – 1578年)。山内上杉家16代当主。越後を統一したほか、関東や北信地方、北陸地方(越中国以西)に度々出兵した。戦国時代でも戦上手とされ、その戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。
越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎。関東管領上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には輝虎と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。
内乱続きであった越後国を統一し、安定と繁栄をもたらした。戦った戦国大名・武将は数多く、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に、武田信玄との5回にわたる川中島の戦いが知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国、能登国、加賀国へ勢力を拡大したが、49歳で死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。
謙信は、他国から救援を要請される形での遠征が多く、江戸時代から現代に至るまで私利私欲に拘泥しない[2]「義の武将」という印象が強い。一方で、現代では史料の発掘・分析などが進み、利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した戦国大名として捉える研究者も多い。
(出典:Wikipedia)
上杉謙信の名言
生きることを望むものは死に、死を覚悟しているものは生きるものである。
戦場の働きは武士として当然のことである。戦場の働きばかりで知行を多く与えることで、人の上にたつ人物としてはいけない。
人の上に立つ人間は、何かを言う際、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことは言ってはいけない。
私は兵によって戦いを決めるのである。塩によって敵を屈服させることはしないのである。
極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし(辞世の句)
意味:私の死後、私は極楽、地獄に行くのかはわからないが、どちらに行くことになっても今の私の心境は、雲のかかっていない明月のように一片の曇りもなく、晴れやかである。
四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒(辞世の句)
意味:私の49年の人生で得たものは、一夜の夢、一時の栄華、一杯の酒だけである。
上杉謙信関係者の名言
武田信玄名言集 |風林火山!甲斐の戦国大名であり上杉謙信の宿命のライバルの言葉