豊臣秀吉(Toyotomi Hideyoshi)
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人[1][2]。
初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。
墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。
出世するヒントがある豊臣秀吉の名言
金を溜め込んで使わないのは、良い侍を牢屋に入れておくことと同じ。
-豊臣秀吉-
一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られる。
-豊臣秀吉-
主人は無理を言うものであるとしっておくべきである。
-豊臣秀吉-
信長公は勇将であるが良将ではない。
-豊臣秀吉-
やるべき事が明確であるからこそ、日夜、寝食忘れて没頭できる。
-豊臣秀吉-
障子を開けてみよ。外は広いぞ。
-豊臣秀吉-
負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし。
-豊臣秀吉-
ひそかにわが身の目付に頼みおき、時々異見を承わり、わが身の善悪を聞きて、万事に心を付けること、将たる者、第一の要務なり。
-豊臣秀吉-
人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。
-豊臣秀吉-
およそ主人たるもの、1年使ひ見て、役に立たぬときは暇を遣はし、家来としては、三年勤めて悪ししと知らば、暇をとること、法なり。
-豊臣秀吉-
戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである。
-豊臣秀吉-
敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ。
-豊臣秀吉-
いくら謙信や信玄が名将でも、俺には敵わない。彼らは早く死んでよかったのだ。生きていれば、必ず俺の部下になっていただろう。
-豊臣秀吉-
人と物争うべからず、人に心を許すべからず。
-豊臣秀吉-
主従や友達の間が不和になるのは、わがままが原因だ。
-豊臣秀吉-
猿・日吉丸・藤吉郎・秀吉・大閤、これも又皆がいやがるところでの我慢があったればこそである。
-豊臣秀吉-
豊臣秀吉関係者の名言
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